岩波英知自己正常化プログラム口コミブログ Dr.Strangelive または私は如何にして対人緊張で苦しむのを止めて自分を愛するようになったか

☆人生を地獄に突き落とした対人緊張、社会不安障害、対人恐怖、視線恐怖症、赤面症、そしてうつ病 その私がいかにして劇的に神経症を克服できたか。 岩波英知先生の自己正常化プログラムを受講したブログ主の口コミ体験談 その効果やすごさについて ☆私に奇跡を起こしてくれた岩波英知先生の神経症克服プログラム(自己正常化プログラム)の体験記や感想、ガイド 社会不安障害(対人緊張や視線恐怖症)・うつ病で苦しんだ修羅場の体験記 このブログを同じ対人緊張で人生を苦労の連続にしてしまった人へ捧げます

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対人恐怖や社交不安障害の真っ只中にいる人は、治っている自分が想像できません。

しかし、一度心を完全にリセットして、想像してください。

すべてから解放されている自分、自由でのびのびして、なにものにもとらわれていない自分…

それは可能です!

絶対にできます!

不可能なことはありません!

その方法があるんです。

希望を持ちましょう。


神経症、対人緊張や社会不安障害を治す! 治るために私が大事だと思うこと

私の経験から得た結論

なぜ私が岩波英知先生の心理脳内プログラムに通うまで良くならなかったのか
そして、通ってから、良くなったのか

この二つを考えていくと、自ずと一つの結論に達します。
この大きな違いは何なんだろう? 
結局は専門家・施術者の能力につきます。
かといって、すべて施術者任せにするのではなく、あくまで自分が治ってやるという意気込みがプラスされた方がいいです。
たしかに飛び抜けた存在ですし、他に二つと無いプログラムです。
他の専門家がどんなに努力しても追随できないといえるくらい貴重だと思います。
でも、呼吸をしてくるのも自分、自己暗示を入れるのも自分(先生も暗示をかけますが時間から言うと自己暗示の方が圧倒的に多いです)です。
だから、主体性を持ってプログラムに取り組みましょう。
自分自身の心の手強さを知っている人ならなおさらです。

神経症を克服させる方法はあくまで方法論で実際にできていません

それまでは、私はまったく医者や心理セラピストに信頼がもてなくなってました 。
なんでしっくりいかなかったかというと、期待が持てなかったからです。
だから通っていても、いくのがめんどくさい気持ちを持って通っていたのを思い出します。
惰性で通っていたのです。


惰性に陥ってしまうなら、通わない方がいい。
そのお金と時間を、別のものに振り分けた方がいいです。
本物の施術者は、最初から、ガチッとくるものなのです。
毎回毎回新鮮な驚きと、効果を感じられるから、期待を込めて通っていました。
当然、よくなってやる! という積極的な気持ちもどんどん出てきました。
対人緊張や鬱から脱出できる出口が見えてくるから、落ち込み具合もどんどん減ってきました。

メンタルは悪いときは歯止めなく悪化していきます

人間は、人生はうまくいくときは、どんどんうまくいくものです。
悪循環のどん底の時は、絶対何をしても、どんなに抗ってもうまくいかない。
悪循環から好循環の人生になる秘訣は、悪循環の元になっている、そうせざるを得ない過去の人生の問題を消滅させていけばいいわけです。

消滅と言っても、起こったことはもう取り返しがつかないから、問題でなくせばいいわけです。
無意識がちょっかいを出さないように、ただの事実として残ればいいわけです。
そうすれば、時効となり、重みが一気にとれます。

そのとき、私は本格的に乗り越える直感がしました。
理論的にも、感情的にも、これで良くなるな、と言う確かな予感がしました。
ぴったりはまった、と言っていいと思います。
原因がわかってるんだから、あとはそれに対処していけばいい。

100の平凡セラピストよりもたった一人の本物との出会い

でも、それをすべてできたのは、ひとえに岩波英知という存在でした。
神経症克服というのは、たしかに大変です。
簡単にできたらみんな苦しんでいません。 
それが、あ、簡単なんだな、と思ったとき、一気に頭にリセットがかかりました。
そんな手強い事じゃないなという実感です。 
それができたのは、天才心理脳内コンサルタントの先生の能力がまずベースにありました。

悩んでも人生は一度だけです。そして悩みは決して時間は解決してくれない。
もう悩んでしまったのならばしょうがない。乗り越えるしか道はないと思います。
乗り越えて悩んだエネルギーを何倍にもして取り戻す、そういう主体性を持っている人ならば、必ず乗り越えられるだけの強い武器を岩波先生はその技術で与えてくれるはずです。

社会不安障害、対人緊張にいつまでも苦しめられる悪循環を破壊してください。
あなたならが必ず成し遂げられます!

 

私はとても回り道をして、結果が出ました。だけれども、みなさんはダイレクトに神経症解決へと向かってください。
それだけのものがこの心理・脳内プログラムと岩波先生にありましたから。

このホームページが、神経症を解決するための大きなきっかけになることを願ってやみません。
神経症や心の悩みはすべてから光を奪ってしまいます。 

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本気で神経症を克服したい方、メールを待っています。
力になりたいです。私と同じ苦しみはすぐ終わりにしてください。
最近、神経症克服プログラムは予約が多く、断られているケースが続出しているそうです。
それでもあきらめないでください。私もそんな人の力(紹介者優先のため)になりたいと思います。メールを下さい

リンクを張ってもいいよという人は、メールください。勝手に貼ってくださっても結構です


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岩波英知先生の技術との出会い 神経症克服プログラムの感想
すべてはメールから始まった。書かれてあった内容はいまはもうはっきり思い出せないけれど(それだけ私の頭は混乱していたのかもしれない)、私はこれだと思った。これしかないと思った。
その能力があるという岩波英知先生に会いたいと思った。でも別の考えがよぎった。でも、自分ではまた駄目だろうな、と思った。他の人は良くても私だけは無理だと。

その希望と不安が入り交じった中、その方にいろいろと教えてもらった。対人緊張で克服経験のある方だった。生い立ちなど私に凄く似ていてびっくりした。同じ悩みの人はいることは知っていたけれど、生い立ちまで凄く似ているのは驚いた。似たような環境から似た症状になるものだ。
同時に希望が出てきた。その方が、治ったんだから私もできるかもと思った。大丈夫とおっしゃってくれた。でも料金は4*万円だった。とても自分には払えない金額だった。(仕送りをいままではいろいろとヒプノセラピー・森田療法に費やしてきた。もっと早く知っていれば、と思った)。

とにかく先生と話をしたかった。でも、予約が取れないらしい。かなり先まで待つとのことだった。でもどうしても受けたい気持ちがあった。絶対お金を貯めます、と真剣に頼んでみた。
もう父親にいってお金を借りようと思った。特別に岩波先生という方の連絡先を教えてもらった。電話で話した。これはもう間違いないと思った。これは直感だった。本物だと感じた。この人はなにか自信がありそうだし、自負心を持って生きている。そしてこの直感はあたっていた。
私の想像の何百倍も、通ってから本物だと感じた。。まだ先生の能力を目の当たりにもしていないのに、もうやる気十分だったのは何でだろう。自分はこのときカケに出ていたのかもしれない。
これが駄目なら終わりだとまで思っていた。命を投げ出すぐらいの気持ちだったから、なにか感覚的な鋭さが出たのかもしれない。わからないが、何かがわかっていた。本当に実力のある先生だと言うことが。
理性で判断した者じゃなくて、動物的な本能で判断したのかもしれない。フィーリングがあったのは間違いない。

(ネクスト)



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学生時代の思い出-小学生まで

幼児期の頃から、ああしろ、こうしろ、恥をかくな、良く思われろ、という教育を受けてきた。人目を気にしやすい母親・厳格で融通がきかない感情を表に表さない父親のもとで育った。
当然、誰よりも人目に敏感になり、自己主張もできません。感情の発散自体が恥ずかしいことと思って生きてきた。兄弟もみんな似たような性格を持っている。
でも、ここまではまってしまったのは私だけ…。何が差を分けてしまったのでしょうか。でも今は兄弟も少なからず悩みを抱えているようです。神経症とまでは至っていませんが。

いつもどこかに窮屈な感じをして生きてきた。クラスメートとも、話がしっくりいかない子供とは、絶対その後しっくりいかなかった。
自分を受け入れてくれる子供だけ友達になったが、自分が苦手だな、と思った同級生とは絶対、うまく喋られなかった。気持ちがどうしてもついていけなかった。年上の人や先生ともうまく喋られなかった。
なにか喋らなきゃ、暗いと思われる、変に思われる、という気持ちが子供の時から強かった。だから喋ろうと話しかけようとする。
だけれども、よけい何を言っていいかわからなかった。でも話したい。余計窮屈感を覚えた。
子供らしいところもあったけれども、幼くして、はまるベースを着々とはぐくんでいた。なんか生きづらいなと感じていたことは確か。
でも子供心に楽しいこともたくさんあったけれど。

友達やクラスメートにちょっかいを出されるようになった。一応友達だったやつだが、いつも私のことを無口だの、もっとしゃべれ、だの言う。また目が潤んでいるので、なんで泣いているの? なんてよくいわれた。
そこが視線を意識、眼を意識する原因となったのかもしれない。その悪友だけではなく、別の奴にも言われたから、そうなのかな、とよけい自分の目を意識した。
ともかく、そいつの言うことがすべてが、私に対する当てつけに思われた。だからいつもそいつがいると身構えた。人のいうことの裏を考えるようになった。人の投げかける言葉をすべてマイナスにとってしまうように。

どうしたら言われないようになるか、いつも心を砕いていた。余計居場所がなくなるというか窮屈感が増した。
でもそいつとはつきあわなきゃいけない。そのちょっかいや当てつけに対して、がつんと言ってやりたい。でもできなかった。
よけい不満がたまったし、それが言えない自分が情けない。さらに、そいつの友達までが(私とは親しくない)私にちょっかいを出し始めた。
なんでこいつにまで言われなきゃならないんだと思った。プライドが傷つけられた。爆発しそうだった。でも我慢した。そんな自分に嫌悪感を持った。抑圧をため続けていた。
家でも同じ感情を抑圧されることを親からかけられていた。でも発散できるほど、人慣れしていないし、感情を出せないから、よけい内面に不満をため続けた。
岩波英知先生に出会うまでずっと抑圧のはけ口がなかった。だから神経症になるしかなかった。今から考えても恐ろしいことです。

一人で遊ぶことが好きだった。ホッとした。空想ごっこをして遊んでいた。両親もそんな自分に不安を持っていたらしい。
強い子にしようと、習い事を無理矢理させられた。見知らぬ環境が本当に本当に嫌でたまらなかった。通うのが嫌で良く泣いた。通うまでの車の中はとても暗鬱だった。
みな自分を嫌っているように思えた。他の人が楽しくやっているのを見ると、そうなりたい気持ちがあったけれども、できない自分が惨めに感じた。どうしたらあんな楽しくできるんだろう、と思った。母親はそんな私を不満に思っていたと思う。いろんなところに通わせられた。たぶん、そんな息子を持っていることが、人目に悪く映ってしまうからだろう。年を重ねるにつれて、人の評価を必要以上に気にするようになっていった。
親は親でこんな性質の子供に仕立てておいて、自己主張できないことをなじったりした。言われるがままだった。

学校は楽しくなかった。楽しいときもまあまああったが、トータルでみれば、やっぱり高校生に神経症という悪魔におそわれるだけの材料はたくさん収集していた。だからきつかったと言えると思う。いつも自分を守り続けていた。

異様に人からの評価が怖かった。通知票が怖かった。保護者面談が怖かった。
●●くんってさ、という会話が聞こえてくると、自分の評価を下されるんじゃないか、と怯えた。クラスのどこからか、自分の名前に似た言葉、発音が聞こえると、私の噂をしているんじゃないか、と不安になった。実際悪口も聞こえてきた。だから余計気になった。
人の顔色をいっそう伺うようになった。そんな自分がやっぱり窮屈で、年を重ねるごとにどんどん居場所が無くなっていった。ますます気持ちが萎縮していく。この頃から自意識がもっと芽生えたら確実に対人恐怖になってしまうルーツは出来上がっていました。

中学受験をすることになった。自分だけ違う進路に行くと、クラス中の生徒になにか噂されたり、疎外されるんじゃないかと怯えた。こんなくだらないことまで気を病んでいた。人と違ったことをしたくなかった。
当時は私立中に行く比率がすくなかったため、そんなことをしたくないと思った。でも、中学で、違う環境にいける喜びがあった。窮屈なこの状態から抜け出したい気持があったから。

近くの進学塾に通った。5年生からだ。でも一年ちかく、ほとんど友達ができなかった。話しかけるきっかけがなかった。みんな自分より前から入っている人ばかりだったから、私が話しかけると変に思われはしないか、と気にしていた。
その後、あとからはいってきた人と仲良くなり、それがきっかけで、他の人とのなじめるようになってきた。それに受験勉強という目的があったから、少しは楽だった。私の生活態度や内面をみられなくてすむから。
とはいっても、やっぱり対人恐怖的な症状は、すでにあったし、小学校ほどではないにしろ、人目を気にしたり、自分の名前に似た発音があると、やっぱりここでも言われちゃうのかな、とおもって、暗くなったときが何度もあった。
受験勉強はけっこう頑張った。だから学校では成績も良かった。

うんこをクラスで漏らしてしまったことがあった。トイレに行きたい、と言えなかったのだ。だからついに我慢できなくなって、出てしまった。
終わりのホームルームの時で、みんなくさい、くさい、といった。もう死にたかった。消えたかった。ただ嵐が過ぎるのをまっていた。結局、犯人がわかることなくおわった。(周りの奴は知っていたかもしれない)。
私はすぐ泣いて帰った。恥ずかしいことを我慢したら、余計恥ずかしい目に遭ってしまう。このルーツ分析をしていて、一時の恥を堂々とかけるきっかけになった過去の出来事でもある。これを反面教師にした。

話を戻すと、その後、犯人がわかってしまった。椅子にある防災用の頭巾クッションの臭いでわかったらしい。翌日ばれるのが凄く怖かった。ばれているんじゃないか、と怯えていた。
もう一生学校に通いたくなかった。当然、朝の登校時から、私を見る目がみんな違う。いかにもさげずんだ、馬鹿にした、にやついた顔ばっかりだった。クラス中噂になっていた。いたたまれない気持ちで席に座った。
あれだけ、みんなに変に思われることをしないように決めていたのに。防災頭巾は無くなっていた。担任の先生が捨てていた。誰も話しかけてくれる奴はいなかった。その後、あからさまに無視する奴が出た。
すべて自分が悪いんだと思って、耐えていた。よけいクラス中の話し声が、自分を責めたり笑ったり、悪口を言っているようにそのとき以来、いっそう聞こえた。悪友の一人が別のクラスにも教えまくった。惨めだった。
当時不登校は一般化していなかったため、必死で耐え続けた。

トレイに行きたいのをを我慢して漏らしてしまったことがそれ以前にもあった。何か発言するとまずいんじゃないか、恥ずかしい、と思って我慢に我慢を重ねた。つまり、自己主張が全くできない子だった。小便をもらして、水だ、と嘘をついたこともあった。
なにか違う出来事で自分が浮いてしまうことをおそれて、目立たないようにしようといつも思っていた。目立ったことをしちゃいけないと思った。だから、うんこを漏らした事件は、取り返しようもつかない傷を作ってしまったと、ずっと思っていた。

みんなからシカトごっこの標的にされたこともある。何をやっても話してくれないし、話しても反応しない。こんなことをされるのは自分が悪いんだと思った。他の奴はされていないのに私だけされるには、絶対理由があるに違いないと思った。
どうしたらされないですむんだろうと思った。自分の存在自体が、そうされる要素を持っているんだとしたら、そう考えただけでも恐怖だった。それは、もう対策がとれないからだ。そいつらに、立ち向かったり、怒ったりすることもできなかったし、泣きたかった。
それはすぐ終わったが、いつそれがまたされるんだろうと思うと、余計嫌われないように行動しなきゃと思った。目立つことはしないでいれば、すべて何事もなく時間が過ぎていくだろうと感じた。それを実践しようと強く決めた。
この逃げの姿勢が対人恐怖を強化してしまうことに。

それまで目立ったことをすると(当然子供の無邪気さで)、それを押さえつけたり、悪口を言う奴が近くに必ずいた。どんどんそんなわけで萎縮していった。
もうこのころから、対人緊張や社会不安障害の原因は完全にできあがっていたし、いまなら当然だと思っている。それぐらい抑圧と萎縮と人の顔色を読む反射神経は並はずれていた。

そのときは夢も目標もあった。勉強もスポーツも頑張っていた。
私の父親と母親に育てられれば、症状の度合いは違うけれど、はまってしまう子供になるのは、今はわかる。でも、親は変えられない。いつまでそんなことにくよくよ考えてもしょうがないと思う。
でも、子供の時はそれがすべての世界だったから逃れようがなかったのです。

 

(ネクスト)



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