岩波英知自己正常化プログラム口コミブログ Dr.Strangelive または私は如何にして対人緊張で苦しむのを止めて自分を愛するようになったか

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排尿恐怖症の症状って?

近くに人がいると排尿できない症状です。
私も排尿恐怖症でした(いまは克服しています)。

社会不安障害、対人恐怖症の一種なので、これらの症状の人で排尿恐怖症の人もたくさんいると思います。
特に男性の人が圧倒的に多いでしょう。
女性は個室がありますから。

この個室がある、ないが重要で、もし女性で社会不安障害の人ならば、個室がなくてトイレをすることになったら、たちまち排尿恐怖症の女性が激増するに違いありません。
排尿恐怖症は尿が出なくなる単純な問題ではなく、『対人』という状況でなる症状なので、まさに社会不安障害、対人恐怖症の一種です。

特に苦手な人の時に発症しやすく、次第に全人間に適用されていく症状

職場や学校でのトイレに人(上司とか苦手な人間の場合特に…)が入ってくると、どんなに尿意があっても出なくなります。
公衆トイレでも、後ろに並ばれたり、横に人がいて用を足していると、勝手に緊張し、心臓がドキドキして排尿ができなくなる症状です。
無理に早く俳名しようと頑張ろうとすればするほど、ますます出なくなってしまいます。

人がいなければまったく問題がないですが、キャリアが長いと、私のように『このトイレに人が来るかもしれない』と思うだけで、一人でも排尿困難になってしまいます。
なので小便でも、個室に入って排尿する人が多いです。
私もそうでしたが、学生時代大便の個室から出てくることを見られたら、ひどくバツの悪い思いをしたし、本当は小便を普通にしたいんだよと悔しくなっていました。


排尿恐怖症のストレス

小便で緊張するなら、個室でやればいいじゃないかと、排尿恐怖症を知らない人からしたら簡単に言われそうですが、ものすごいストレスがありました。
普通に行動できない自分がまず情けなくなります。
当たり前のことができないことのストレスです。

あと常にトイレのことを考えなくてはいけません。
やはり男は小便器で衛生面で用を足したほうがいいのに、なぜ自分はわざわざ汚い大便器で小便をしているのだろうと、悔しくなります。

そして誰にも相談できない悩みでもあります。
尿意があるのに排尿できないことを、普通の人は訳がわからないでしょう。

早くトイレを済ませないといけない時、焦れば焦るほど排尿できなくなり、人を待たせてしまっている時ほど、焦りが倍増します。
これもものすごいストレスです。

常にトイレでもトレイに入る前でも、排尿恐怖症のこと(予期不安)が頭をよぎります。
人が来たらどうしよう、トイレが遅くて待たせたらどうしよう…など色々なくだらないことばかり考えていました。


排尿恐怖症から対人恐怖症、社会不安障害の症状が悪化するケースも

もともと対人恐怖症ではなかった人、あんまり意識してこなかった人が、排尿困難をなにかのきっかけで覚えてから、そればかり気に病んで固着し、様々なケースで人に対して緊張するようになり、全般的な対人恐怖症になったという例も多いようです。

排尿恐怖症の初期段階であっても、人に相談することは恥ずかしいし、理解されない悩みでもあるので、一人で悩みやすく、焦りが加わって、排尿恐怖症から対人恐怖症に転落していくことは想像に難くありません。


排尿恐怖症が治った経緯についてお話します

排尿恐怖症を克服できたのは、対人恐怖症の克服により、付随的に治った感じです。
人がいると緊張する自分でいる限り、トレイのような生理現象では、排尿恐怖症(排尿困難)になるのは当然です。

自分のアソコを覗かれるかもしれないとかあります。
対人恐怖の人はそういうことをされることに神経過敏です。
また脇見恐怖症(自己視線恐怖症)により、隣の人のアソコを覗いてしまって、変に思われるのではないか?ということから緊張したりもします。
後ろや隣で開くのを待たれていてプレッシャーを感じると、尿道が閉まるぐらい緊張します。

これもすべて対人恐怖症の症状ですので、人がいても極度の緊張をしない自分にならないといけません。
普段から考え方を変えて、認知の歪みを矯正していかなければならないのと、緊張が生じる心因的なメカニズムを破壊しなければなりません。

人がいても緊張で体が硬直するのではなく、受け流せるようになれれば、尿道も少しずつ開いていきます。
脱力感をいかに普段から脳に味合わせるかが大事です。

一人で排尿をするときのことを考えて下さい。
脱力感を感じながら排尿しますし、排尿しているからさらに体が緩んできます。
だから、排尿恐怖症が改善していくことで、対人恐怖症も改善に向かいます。
対人恐怖症が治っていく過程で、必ず排尿恐怖症も付随して良くなっていくでしょう。
私は気がついたら、人がいても脱力感を感じて排尿できるようになっていました。


それは人にどう思われるとか、変に思われたくないとか、そういう認知の歪みが治ったからです。
なぜ人に過度によく思われる必要があるんだろう?と、自分でも馬鹿らしくなりました。
そこから、排尿恐怖症も改善に向かっていったと思います。



あとは根本的に緊張感や恐怖心を取り除いてやることしかないと思います。
無意識で勝手に反射反応してしまう『脳の癖』を治すことで私は治りました。
対人緊張が自分の意志とは全く関係なく極度に生じるようになったら、小手先の対策では効果がありません。

それについてはこちらをお読み下さい。
対人恐怖症、社会不安障害の克服の過程をこちらに書いています。


高校生で神経症になるまで

私立中学に入学した。小学校時代の窮屈さやしがらみから解放されるとおもって、少しは希望をもった。電車で遠いところにある中学に行ったので、すべてが変わると思った。でも何も変わらなかった。よけいひどくなった。
中学校自体の雰囲気がなにかどんよりも曇ったイメージだった。年齢の成長もあるかもしれないが、みな疎外感を全面に漂わせていた。心に壁を作り始める年代だ。重苦しかった。何より自意識が芽生える年頃だ。
私に自意識が芽生えたら、自滅するのは今ならよくわかる。

それでも最初は環境が変わり、心機一転の心境だった。でも、クラスの中で派閥を皆作り始めた。そしてその派閥以外のグループとは疎遠の状態だった。だから、孤独感は余計強まった。
私は、あるグループで行動を共にした。そのグループの中では居場所があり安心だった。でも、嫌われたくない、良く思われたいという気持ちは、いっそう強まった。疎遠なグループのメンバーから自分のことが嫌われているんじゃないか、という思考が小学生時代のようにおそってきた。ほんとうに冷たい雰囲気のクラスだった。担任も窮屈な奴だった。
だから、その素っ気ない態度で、余計やばい嫌われている、といつも周りをチェックし、人の顔色を見た。嫌われないようにどうしたらいいのか、どうしたら好かれたり、みんなに受け入れられるんだろう。全神経をつかって、この自意識が芽生える時期に全力でやっていた。小学生の何倍も窮屈になった。
いつも怯えていた。悪口が怖かった。疎外されたり、無視されるのが怖かった。

あることでクラスの奴とけんかした。冷戦状態のけんかだ。理由は忘れたが、お互いに譲れないものがあったんだろう。私もかなり頑固な性格だったし、ここで負けたらアイデンティティがやばい、と思ったのかもしれない。
ともかく、なにか強く思ったら強化してしまうことがあった。それが神経症に結びついているのだが、そのとき、けんか相手に別のグループの奴まで応援した。ショックだった。中立なのに、なぜか相手を応援している。急に弱気になった。惨めになった。
余計クラス中の眼や顔色を伺うようになったし、いけないことをしてしまったという後悔ばっかりしていた。けんか相手の奴がにやついているのをみると、無性に腹が立った。やっぱり私の存在が、そういうふうな存在なのかな、と腐った。
ここであくまでも私の筋を通しきれば、違った結果になっていたことは間違いない。勝手に萎縮してしまって、殻に閉じこもった私の自滅ですね。

高校に入った。がちがちに人前で緊張していた。国語や英語で発表があったり、当てられたりすることがある。中学までは、いやだったけれど、それなりに読めていた。
でも急に声に(のどに)意識が向いた。恥をかいたらどうしよう、という思考がよぎったのかもしれない。急に声がつっかえた。どもるようになった。クラス中の奴が笑った。自分自身、声の震えも気になる。それ以来、教師に当てられることも凄く辛くなった。クラス中のやつらが、当てられるのを期待しているようだった。
実際、クラス討論会があり、しょっちゅう自分に当てられた。惨めだった。奴らの期待は、自分がつっかえたり、声が出なくなって突っ立っていることだけだった。でも、道化のように私は笑っていた。心の中では泣いていた。同情してくれる人もいたが、辛いだけだった。

目立たないようにしようと思っていたことが、自分の症状のせいで目立ってしまうし、嫌われないようにしようと必死で心に誓ったのに、嫌っている奴も(最低限気に入らないぐらいでもいやだった)いたし、みんなから好かれたいのにそれもかなわなかった。
自分を完璧にして、良く思われようと常に考えていたが、行動もせずに頭の中で良く思われようと思っていただけで、ついには自滅してしまった。

細かいことはいくらでもあるけれど、それ以後の自分に比べれば、まだまだ序の口だ。まだまだこのころまでは生きられたし、ハンデはあったけれど、死を予感したことはなかった。
でもこのあとに、とんでもない負担が私の心をおそった。完全に神経症になってしまった。生きられないと思ったし、治る見込みがないと思った。それまでのきつかったが、度合いが今度はもっと違う。

 

(ネクスト)


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学生時代の思い出-小学生まで

幼児期の頃から、ああしろ、こうしろ、恥をかくな、良く思われろ、という教育を受けてきた。人目を気にしやすい母親・厳格で融通がきかない感情を表に表さない父親のもとで育った。
当然、誰よりも人目に敏感になり、自己主張もできません。感情の発散自体が恥ずかしいことと思って生きてきた。兄弟もみんな似たような性格を持っている。
でも、ここまではまってしまったのは私だけ…。何が差を分けてしまったのでしょうか。でも今は兄弟も少なからず悩みを抱えているようです。神経症とまでは至っていませんが。

いつもどこかに窮屈な感じをして生きてきた。クラスメートとも、話がしっくりいかない子供とは、絶対その後しっくりいかなかった。
自分を受け入れてくれる子供だけ友達になったが、自分が苦手だな、と思った同級生とは絶対、うまく喋られなかった。気持ちがどうしてもついていけなかった。年上の人や先生ともうまく喋られなかった。
なにか喋らなきゃ、暗いと思われる、変に思われる、という気持ちが子供の時から強かった。だから喋ろうと話しかけようとする。
だけれども、よけい何を言っていいかわからなかった。でも話したい。余計窮屈感を覚えた。
子供らしいところもあったけれども、幼くして、はまるベースを着々とはぐくんでいた。なんか生きづらいなと感じていたことは確か。
でも子供心に楽しいこともたくさんあったけれど。

友達やクラスメートにちょっかいを出されるようになった。一応友達だったやつだが、いつも私のことを無口だの、もっとしゃべれ、だの言う。また目が潤んでいるので、なんで泣いているの? なんてよくいわれた。
そこが視線を意識、眼を意識する原因となったのかもしれない。その悪友だけではなく、別の奴にも言われたから、そうなのかな、とよけい自分の目を意識した。
ともかく、そいつの言うことがすべてが、私に対する当てつけに思われた。だからいつもそいつがいると身構えた。人のいうことの裏を考えるようになった。人の投げかける言葉をすべてマイナスにとってしまうように。

どうしたら言われないようになるか、いつも心を砕いていた。余計居場所がなくなるというか窮屈感が増した。
でもそいつとはつきあわなきゃいけない。そのちょっかいや当てつけに対して、がつんと言ってやりたい。でもできなかった。
よけい不満がたまったし、それが言えない自分が情けない。さらに、そいつの友達までが(私とは親しくない)私にちょっかいを出し始めた。
なんでこいつにまで言われなきゃならないんだと思った。プライドが傷つけられた。爆発しそうだった。でも我慢した。そんな自分に嫌悪感を持った。抑圧をため続けていた。
家でも同じ感情を抑圧されることを親からかけられていた。でも発散できるほど、人慣れしていないし、感情を出せないから、よけい内面に不満をため続けた。
岩波英知先生に出会うまでずっと抑圧のはけ口がなかった。だから神経症になるしかなかった。今から考えても恐ろしいことです。

一人で遊ぶことが好きだった。ホッとした。空想ごっこをして遊んでいた。両親もそんな自分に不安を持っていたらしい。
強い子にしようと、習い事を無理矢理させられた。見知らぬ環境が本当に本当に嫌でたまらなかった。通うのが嫌で良く泣いた。通うまでの車の中はとても暗鬱だった。
みな自分を嫌っているように思えた。他の人が楽しくやっているのを見ると、そうなりたい気持ちがあったけれども、できない自分が惨めに感じた。どうしたらあんな楽しくできるんだろう、と思った。母親はそんな私を不満に思っていたと思う。いろんなところに通わせられた。たぶん、そんな息子を持っていることが、人目に悪く映ってしまうからだろう。年を重ねるにつれて、人の評価を必要以上に気にするようになっていった。
親は親でこんな性質の子供に仕立てておいて、自己主張できないことをなじったりした。言われるがままだった。

学校は楽しくなかった。楽しいときもまあまああったが、トータルでみれば、やっぱり高校生に神経症という悪魔におそわれるだけの材料はたくさん収集していた。だからきつかったと言えると思う。いつも自分を守り続けていた。

異様に人からの評価が怖かった。通知票が怖かった。保護者面談が怖かった。
●●くんってさ、という会話が聞こえてくると、自分の評価を下されるんじゃないか、と怯えた。クラスのどこからか、自分の名前に似た言葉、発音が聞こえると、私の噂をしているんじゃないか、と不安になった。実際悪口も聞こえてきた。だから余計気になった。
人の顔色をいっそう伺うようになった。そんな自分がやっぱり窮屈で、年を重ねるごとにどんどん居場所が無くなっていった。ますます気持ちが萎縮していく。この頃から自意識がもっと芽生えたら確実に対人恐怖になってしまうルーツは出来上がっていました。

中学受験をすることになった。自分だけ違う進路に行くと、クラス中の生徒になにか噂されたり、疎外されるんじゃないかと怯えた。こんなくだらないことまで気を病んでいた。人と違ったことをしたくなかった。
当時は私立中に行く比率がすくなかったため、そんなことをしたくないと思った。でも、中学で、違う環境にいける喜びがあった。窮屈なこの状態から抜け出したい気持があったから。

近くの進学塾に通った。5年生からだ。でも一年ちかく、ほとんど友達ができなかった。話しかけるきっかけがなかった。みんな自分より前から入っている人ばかりだったから、私が話しかけると変に思われはしないか、と気にしていた。
その後、あとからはいってきた人と仲良くなり、それがきっかけで、他の人とのなじめるようになってきた。それに受験勉強という目的があったから、少しは楽だった。私の生活態度や内面をみられなくてすむから。
とはいっても、やっぱり対人恐怖的な症状は、すでにあったし、小学校ほどではないにしろ、人目を気にしたり、自分の名前に似た発音があると、やっぱりここでも言われちゃうのかな、とおもって、暗くなったときが何度もあった。
受験勉強はけっこう頑張った。だから学校では成績も良かった。

うんこをクラスで漏らしてしまったことがあった。トイレに行きたい、と言えなかったのだ。だからついに我慢できなくなって、出てしまった。
終わりのホームルームの時で、みんなくさい、くさい、といった。もう死にたかった。消えたかった。ただ嵐が過ぎるのをまっていた。結局、犯人がわかることなくおわった。(周りの奴は知っていたかもしれない)。
私はすぐ泣いて帰った。恥ずかしいことを我慢したら、余計恥ずかしい目に遭ってしまう。このルーツ分析をしていて、一時の恥を堂々とかけるきっかけになった過去の出来事でもある。これを反面教師にした。

話を戻すと、その後、犯人がわかってしまった。椅子にある防災用の頭巾クッションの臭いでわかったらしい。翌日ばれるのが凄く怖かった。ばれているんじゃないか、と怯えていた。
もう一生学校に通いたくなかった。当然、朝の登校時から、私を見る目がみんな違う。いかにもさげずんだ、馬鹿にした、にやついた顔ばっかりだった。クラス中噂になっていた。いたたまれない気持ちで席に座った。
あれだけ、みんなに変に思われることをしないように決めていたのに。防災頭巾は無くなっていた。担任の先生が捨てていた。誰も話しかけてくれる奴はいなかった。その後、あからさまに無視する奴が出た。
すべて自分が悪いんだと思って、耐えていた。よけいクラス中の話し声が、自分を責めたり笑ったり、悪口を言っているようにそのとき以来、いっそう聞こえた。悪友の一人が別のクラスにも教えまくった。惨めだった。
当時不登校は一般化していなかったため、必死で耐え続けた。

トレイに行きたいのをを我慢して漏らしてしまったことがそれ以前にもあった。何か発言するとまずいんじゃないか、恥ずかしい、と思って我慢に我慢を重ねた。つまり、自己主張が全くできない子だった。小便をもらして、水だ、と嘘をついたこともあった。
なにか違う出来事で自分が浮いてしまうことをおそれて、目立たないようにしようといつも思っていた。目立ったことをしちゃいけないと思った。だから、うんこを漏らした事件は、取り返しようもつかない傷を作ってしまったと、ずっと思っていた。

みんなからシカトごっこの標的にされたこともある。何をやっても話してくれないし、話しても反応しない。こんなことをされるのは自分が悪いんだと思った。他の奴はされていないのに私だけされるには、絶対理由があるに違いないと思った。
どうしたらされないですむんだろうと思った。自分の存在自体が、そうされる要素を持っているんだとしたら、そう考えただけでも恐怖だった。それは、もう対策がとれないからだ。そいつらに、立ち向かったり、怒ったりすることもできなかったし、泣きたかった。
それはすぐ終わったが、いつそれがまたされるんだろうと思うと、余計嫌われないように行動しなきゃと思った。目立つことはしないでいれば、すべて何事もなく時間が過ぎていくだろうと感じた。それを実践しようと強く決めた。
この逃げの姿勢が対人恐怖を強化してしまうことに。

それまで目立ったことをすると(当然子供の無邪気さで)、それを押さえつけたり、悪口を言う奴が近くに必ずいた。どんどんそんなわけで萎縮していった。
もうこのころから、対人緊張や社会不安障害の原因は完全にできあがっていたし、いまなら当然だと思っている。それぐらい抑圧と萎縮と人の顔色を読む反射神経は並はずれていた。

そのときは夢も目標もあった。勉強もスポーツも頑張っていた。
私の父親と母親に育てられれば、症状の度合いは違うけれど、はまってしまう子供になるのは、今はわかる。でも、親は変えられない。いつまでそんなことにくよくよ考えてもしょうがないと思う。
でも、子供の時はそれがすべての世界だったから逃れようがなかったのです。

 

(ネクスト)



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