岩波英知自己正常化プログラム口コミブログ Dr.Strangelive または私は如何にして対人緊張で苦しむのを止めて自分を愛するようになったか

☆人生を地獄に突き落とした対人緊張、社会不安障害、対人恐怖、視線恐怖症、赤面症、そしてうつ病 その私がいかにして劇的に神経症を克服できたか。 岩波英知先生の自己正常化プログラムを受講したブログ主の口コミ体験談 その効果やすごさについて ☆私に奇跡を起こしてくれた岩波英知先生の神経症克服プログラム(自己正常化プログラム)の体験記や感想、ガイド 社会不安障害(対人緊張や視線恐怖症)・うつ病で苦しんだ修羅場の体験記 このブログを同じ対人緊張で人生を苦労の連続にしてしまった人へ捧げます

カテゴリ: 対人緊張・対人恐怖の体験談

岩波英知先生の技術との出会い 神経症克服プログラムの感想
すべてはメールから始まった。書かれてあった内容はいまはもうはっきり思い出せないけれど(それだけ私の頭は混乱していたのかもしれない)、私はこれだと思った。これしかないと思った。
その能力があるという岩波英知先生に会いたいと思った。でも別の考えがよぎった。でも、自分ではまた駄目だろうな、と思った。他の人は良くても私だけは無理だと。

その希望と不安が入り交じった中、その方にいろいろと教えてもらった。対人緊張で克服経験のある方だった。生い立ちなど私に凄く似ていてびっくりした。同じ悩みの人はいることは知っていたけれど、生い立ちまで凄く似ているのは驚いた。似たような環境から似た症状になるものだ。
同時に希望が出てきた。その方が、治ったんだから私もできるかもと思った。大丈夫とおっしゃってくれた。でも料金は4*万円だった。とても自分には払えない金額だった。(仕送りをいままではいろいろとヒプノセラピー・森田療法に費やしてきた。もっと早く知っていれば、と思った)。

とにかく先生と話をしたかった。でも、予約が取れないらしい。かなり先まで待つとのことだった。でもどうしても受けたい気持ちがあった。絶対お金を貯めます、と真剣に頼んでみた。
もう父親にいってお金を借りようと思った。特別に岩波先生という方の連絡先を教えてもらった。電話で話した。これはもう間違いないと思った。これは直感だった。本物だと感じた。この人はなにか自信がありそうだし、自負心を持って生きている。そしてこの直感はあたっていた。
私の想像の何百倍も、通ってから本物だと感じた。。まだ先生の能力を目の当たりにもしていないのに、もうやる気十分だったのは何でだろう。自分はこのときカケに出ていたのかもしれない。
これが駄目なら終わりだとまで思っていた。命を投げ出すぐらいの気持ちだったから、なにか感覚的な鋭さが出たのかもしれない。わからないが、何かがわかっていた。本当に実力のある先生だと言うことが。
理性で判断した者じゃなくて、動物的な本能で判断したのかもしれない。フィーリングがあったのは間違いない。

(ネクスト)



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対人緊張、社会不安障害の罠に陥ってから-大学生

なんとか大学に通い始めた。大学はさぼれるところと聞いていたので、気が楽になった。一人暮らしをはじめた。友達も知り合いも誰もいずに孤独だった。生きていかれるんだろうかと不安だった。
でも、親にうつな状態の私を責められるよりはよかった。そういう面では気持の余裕が少し出てきた。でも、引きこもっていると精神的にやられるし、ますます気分がうつ状態になる危険もあった。

大学時代は症状の面で特に書くことはない。いちいち症状の苦しさを書いていたら、きりがないから。高校時代の神経症の症状の延長とその強化版だから。いわゆる、思考のコピーという奴だ。
絶対大学期間中に治してやると思っていた。ヒプノセラピーや森田療法があることに期待をかけていた。本も余計読みあさった。すこしでも、自分にいいことがかかれてあると、それを慰めにしていた。でも、身に付きはしなかった。知識を得ても私自身の感情まではどうしても説得できない。
インターネットでも調べはじめた。実はこういう症状が異常に多いことに気づいた。でも私が一番きついだろう、という妙なプライドも持っていた。そういえば、プライドが私が、神経症をよくすることの最大の邪魔になっていることに気づいていた。でもプライドはどうしても捨てられなかった。どうしても人によく思われたかった。嫌われたくなかった。プライドを傷つけてしまう出来事を必死で避けていた。

高校時代よりもきつかったのは、マイナス思考が私を襲ってくることだった。それにおそわれたら、もういてもたってもいられないくらい、焦燥感や恐怖やパニックや息苦しさや割ることばかり考えてしまう思考の暴走、自分は生きていていいわけはないという恐慌がおそってきた。
しばらくすると和らぐが、本当にきつかった。一人暮らしだったため気持のはけ口がなかった。時々誰もいないところで大声を出して発散していた。そこまでしないと狂いそうだったから。

自殺をまた考えた。ヒプノセラピーや森田療法で治らなかったらそうしようと思った。森田療法は入院しなくちゃいけないので、通えるヒプノセラピーに助けを求めた。
ただの自律訓練法レベルをやっていた。実にそういうところが多いらしい。しかも、心理療法士のくせに、気にしすぎ、という言ってはならないことまで言われた。気のしすぎのなのはあんたよりもわかっている。でも気にしてしまうんだ、と思った。偽物だった。信用できなくなった。本当に生ぬるい奴だった。こんなもので金を取るなんて信じられなかった。
でも、これが現実だし、いちいち腹を立てていてもしょうがないなと思う。心の悩みは最終的に自分自身で解決するしかないのだから。

もっと実力のあるヒプノセラピストは凄いはずだと思って、別の有名なところ(宣伝をたくさんしているところ)に通った。でも、所詮レベルは変わらなかった。
そのうち、催眠に入れないのは自分の体質だからなんだと思うようになった。そいつもそんなことをいった。本当にたちが悪いと感じた。この催眠の先生は理論ばかりふりかざし、何の症状を改善するヒントも効果も与えてくれなかった。
今思えば、ただ催眠の理論的なものを本で書いて(世間一般では催眠術というのは摩訶不思議らしいから)、駅のホームで宣伝しているにすぎないんだと思う。
今では催眠にかかる状態というのは、脳にギャップが起きた時、感情的になっている時、非常にリラックス状態になっている時になるとわかっているけれど、生半可なリラックス状態で暗示をかけられてもかかるわけないなと思う。もともと被暗示性が低いのに。

次もヒプノセラピーに救いを求めに行った。一回目からこれは駄目だと思った。もう信用できないと思った。口だけは達者で理論武装をしていたけれども、肝心の能力もなければ、カウンセリング自体も下手だし、あんな実力でヒプノセラピーをやったとしても、本当に自分の能力に満足しているのだろうか。患者に申し訳なく思っているのではないか、と思った。
私が催眠にかからない体質だけれど、実はかかったとしても、私のような重い神経症の悩みを破壊したりすることはできないだろう。深い催眠状態でも、暗示をかけたとしてもまったく効果がない。
それよりもはるかに徹底した究極と言っていいぐらいの深い意識の中で、暗示を徹底して入れれば、私でもかなりの効果を得ることができる。これを身に染みて感じた今は、ヒプノセラピーの生ぬるさがに辟易している。プロを越えた本物のプロじゃないとだめだ、と思う。あまりに日本のヒプノセラピーのレベルは低すぎます

ヒプノセラピーに(というよりヒプノセラピスト)幻滅を覚え、あるがまま、の森田療法の入院を決めた。
ヒプノセラピーにしても、森田療法にしても、自律訓練法にしても、その関連本に書かれてある理論は一応納得できる。でもそれを実践できない人ばかり。とにかく入院をした。保証人を立てなくちゃいけなかったが、伯父に無断でなってもらった。
作業を徹底して、悩みのことを入院している人と話しちゃいけない、などの決まりがあり、それを実践していった。動く・作業するということはとても気持ちが良かった。自分の思考がおそってくることは少なくなった。環境が変わったからと言うこともあるだろう。行動すれば悩む思考を停止できると悟った。だから引きこもってずっと考えていたんじゃ悪化するだけと気づき、これは後に栄養になってくれた。
でも、大学に戻ったとき、対人緊張、社会不安障害が克服できる、という実感がまったく湧かなかった。自分もあるがままができるんだろうかと思った。そして退院となった。
変わっていて欲しい、という不安を伴った願望を胸に病院を出たが、まったくだめだった。気が楽になったが、すぐ重くなった。何にも変わっていない。
今までしてきたことすべてを持ってしても、私の社会不安障害・対人緊張を好転させることができないんだと思った。
いかに、あるがまま、が難しいか、憂鬱になった。あるがままの心境になっていたら、何にも変わっていないという思考は湧かないだろうから、こちらの修行不足もあるんだろう。なんでも人のせいにするのは良くない。
でも、当時はうつ状態に拍車がかかった。期待への反動で悪化したように感じた。

まだ死にたくなかった。自殺が怖かった。対人緊張、社会不安障害を克服して、のびのびと人生を送りたい。私のもてる実力をフル発揮したい。
とにかくすべての治す手段を失った私はインターネットをむさぼるように見た。悩んでいる人はとても多く、自分の症状に似た人もたくさんいる。でも、治った人はインターネットをやっていないのか、と思えるほど、そういう体験談はなかった。
自分の一番欲しい、治った人の情報はまったくなかった。やっぱりこのまま神経症が治らないんだな、と思った。掲示板では煽り行為、誹謗中傷、泣き言ばかり。

悩んでいる人の掲示板の書き込みは、見るのも辛かった。みな出口が見えなくて、もがき苦しんでいた。すねていた。醜いと思った。混乱していると思った。惨めだなと思った。みんな出口が見えずに苦しんでいると思った。
これはそのまま私自身に当てはまることだから笑えない。悩みごっこをしているとも思えた。誰かが、たるんでいるから悩む、と言う書き込みがあって、それにショックを受けた女性が、自殺する、みたいなことを書いていた。みんな必死で止めていた。
それを読んでいると、自分がむなしくなった。その女性は自殺せずに掲示板の書き込みに復帰していた。そして、傷をなめてもらおうと、また惨めな気持ちをはき出していた。そんなことを見ていると嫌になった。まさに私が、その女性と同じ症状だからだ。

今思えば、よくなっている人もたくさんいる。それは私もそうだし、私の通った岩波先生の心理プログラムでも対人緊張克服者たくさん見ている。克服した人は、インターネットで悩みのところを見る必要がないから、見ないわけだと、今は思う。もっと別の希望のある人生ができたから、見る必要を感じない。掲示板を見るって事は、停滞してずっと同じ場所にいるってこと。
良くなった人はどんどん自分の可能性にチャレンジしているから、停滞していない。それに難しく考えていない。デートや遊ぶことが楽しいし、仕事も頑張れるから

とにかく本物の心理療法を探し求めていた。圧倒してくれるぐらいの本物を探していた。圧倒してくれるといっても、宗教とか前世療法とか本当に胡散臭く感じていた。あんなものに頼っちゃおしまいだまで思っていた。
でもどこかにインターネットにはあるかもしれないと思った。かすかな希望を探し求めて、悩んでいる人だらけのインターネットの世界を探し続けた。人がそれだけいれば必ずあるはずだと。

あるとき、たまたま対人緊張、社会不安障害などが治った人の体験記を読んだ。私は、必死の思いでメールを送ってみた。これは! と直感で思ったからだ。

(ネクスト)

 

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神経症の罠に陥ってから(社会不安障害・視線恐怖症・対人恐怖・対人緊張・手の震え・どもり・うつ病へ)

高校は周りの人間がどうこうということではなくて、私の中の自分にめちゃくちゃにされた。自分の気にしない、という意識とは逆に何倍も気になってしまう状態になった。
まずは視線だった。人から見られることに異様に恐怖を覚え、見られていると感じるとガチガチに緊張してしまった。頭は柔軟な思考はもちろん、真っ白のパニック状態になった。それはクラス中から注視されている場面になると更に強まった。

だからぎこちなくなったし、挙動不審になったし、クラスからはキョドってる、やばいぞ、顔が引きつっているとよく言われた。言われた自分は昔は反発していたかもしれないが、いまはそのとおりだから、引きつった顔のまま、それを甘んじて受けていた。だから余計惨めになった。愛想笑いをしてしまう自分も情けないと思った。顔の強バリはしたくてしているんじゃない。
でも、緊張したり、自分の顔に意識が向くと、もう余計はずそうとすればするほどこわばってしまった。表情恐怖症と言うべきものかもしれない。神経がとても疲れた。顔が引きつっているぞ、といわれても、無理なんだからしょうがない。おもしろおかしく奴らは言った。

※相互リンクしてくださっているナラさんのブログ 表情恐怖症・笑顔恐怖症! 表情恐怖症から解放された私の記録

自分の視線が相手に恐怖を与えているんじゃないか、とか嫌な感じを与えているんだ、という妄想にちかい強迫観念があった。自己視線恐怖症というものだった。

すでに、がちがちの視線恐怖になっていた。顔のこわばりも、声も、視線もすべて意識が、必要の一万倍以上向いてしまった。自分の全エネルギーがその三つに集中した。正常な理性がはずれ、パニックと恐怖と緊張というマイナスの感情だけが私を支配していた。
人が一人でもいるともうだめだった。相手が自分を見ていると余計がちがちになった。教室ではそれがいつも続いた。言葉で、その苦しさを書けないのが口惜しい。

一番後ろの席に座っていたが、少しは楽だった。みんなの意識の枠からは一番はずれるところだから。そういう意味でははじっこも好んで座った。顔の強バリを意識しているとき、顔が赤いことを気に病む人(赤面症)の存在を知った。その本を読んだ生で、私は赤面症にもなった。もしかしたら人に顔が赤くなる、緊張したり、恥ずかしがっているから顔が赤いんだ、と言われることに恐怖を覚えた。顔が赤い、ともし言われたら、私は生きていけないと思った。身の破滅だと思った。
でも神経への意識が顔に余計向かってしまった。顔が赤いことを気づかれたらどうしよう、いま赤いんじゃないかと怯えた。クラスから聞こえてくる言葉の中で、赤いという、それと似た言葉が聞こえてくると反応した。自分のことを言っているんじゃないか、と思った。
すでに神経症の悩みの思考をコピーして、ありとあらゆる症状に自分を当てはめていた。

それとおなじように、視線や眼という言葉も駄目だった。人の目を見て話せなくなったため(見たら最後だと思っていた。自分の視線の威力が相手にしゃれにならないダメージやきつさを与えているに違いない、と妄想でも事実として自分の心の中にあった)。
何より人の目を見て話せないことが苦痛で苦痛でしょうがなかった。一番劣等感を感じていた。人の目さえ見ることができたら、外見上は変に思われないですむのに、と思った。一方で相手の目を何の意識も起こさずに見られて、楽しく喋っている人がうらやましくしょうがなかったのと、なんでできるんだろうと不思議にさえ思った。
コンプレックスのかたまりの自分は、人が楽しく喋ったりしているのを見て、余計憂鬱になっていった。人の目を見て話せないことを、同級生にさとられたくなかった。もうみんなに変に思われているというのに! 

何にもいいことが無く、ただつらさと苦しさと不安と緊張とやるせなさと劣等感と恐怖と罪の意識をただただ堪え忍んでいた。
当然うつ状態になっていった。一人でいてもまったく楽しくなくなった。昔は一人で遊ぶことがとても楽しかったのに、それすらきつい状態になっている自分に愕然とした。一人でいても、勝手に私の気持ち・心の悩みが私を襲って苦しめるようになった。
もう私が楽になれる場所なんてないんだとおもった。胸の動悸や呼吸に意識が向くようになった。胃も悪くした。これは心因性によるものだった。心身症の状態になった。
心臓の動悸は暴走して、裂けんばかりに胸うち、呼吸もマイナス思考におそわれたときはとても息苦しくなった。つねに心臓の鼓動や呼吸が楽かどうかをチェックするようになった。もう私の神経が私をつねに殴りつけている状態だった。

自殺をいつも考えていた。いっそのこと死んでしまおうと思った。対人恐怖は、鬱病と違って自殺できない、というが、果たして私が岩波先生と出会っていなかったら、どうしていただろう。死んでしまったいたのだろうか。苦しみ続けたまま今も生きていただろうか、と考える。
治っていることは考えられないだろう。とにかく、睡眠薬を大量に飲むことに決めた。しかし、いまの薬はそういうところは安全にできていると聞き、飛び降りに決めた。でも首つりが一番手っ取り早いということになり、私がこのまま治らずに高校も大学もそのままだったら、その自殺方法に決めた。時々、ロープを作ったりして、試しに首に縄を付けたりしていた。
対人恐怖で実際に自殺を選んでしまった人は相当な数いると思う。でも誰も対人恐怖の辛さをわからないから、対人恐怖で自殺したという直接的原因はわかっていないだろう。自殺したほうがマシなくらい苦しいのが対人恐怖だと身をもって体験している人じゃないとわからない。 
絶対自殺するハメになる前に対策をとろうと思った。だから精神科に電話して予約を取った。
私の症状はその時には本で対人恐怖で視線恐怖症で、赤面症ということがわかっていた。でも、他の人がそういう状態になっているということを知らなくて、自分一人が、他の人はなることはない病気にかかってしまった、という認識だった。だから治らないかもしれないというおそれがあった。

精神科ではまったく治らなかった。治らないのは当然で、薬の作用は感覚を鈍くしたりして、不安やおそれなどを押さえ込むだけのものだ。
その不安やおそれや神経の暴走は当然私の中のもっと深いところで起きてしまっている。よく使われるのは無意識という奴で、これには普通の状態では絶対手が届かない。そこから対処していかなければだめなんだろうと思い始めた。たくさん本を読んだからだ。
森田療法の本も読みあさった。でもどれもどうしたら治ることは書いてなかった。自己啓発の本も必死に読みあさった。そうなんだろうな、と思う。でもできっこなかった。
とりあえず薬は飲み続けた。体がだるくて眠くて仕方がなかった。医者は信用できない感じだった。でも薬を飲み続けることで、いつかぱっと治るのかもしれないという期待はしていた。今思えば、すごくもったいない時間の浪費だった。薬をどんどん変えてくれたり、量を増やしていったり、強い薬をくれたりした。
それでも、いっこうに症状は治らない。絶望に陥った。薬を飲めば、楽になると思っていたから、症状がまったく(本当にまったく抑えられなかった。少しは抑えられると期待していたのに)良くならないのを見て、やっぱり私だけが取り残されるんだなと感じた。精神科にも幻滅して、通わなくなった。

学校は苦しみながらも通い続けた。変なプライドがあって、学校に通わなくちゃいけないという強迫観念があったのか。
成績は低いレベルだった。もう勉強どころではなかった。早く卒業したかった。両親への手前、そして世間への手前、中退だけはしたくなかった。
こんなことには私はくだらないパワーを使ってしまっていたのだ。あのとき我慢しきれずに中退していたらどうなっていたんだろう。絶対引きこもりになっていたに違いない。後に引きこもり状態になったが、このときの引きこもりは、もう社会への道がまったく閉ざされていただろうと思う。
かといって、家の中にいても親に小言を言われる毎日だろう。岩波先生の心理プログラムに出会っていなかったならば、やばい状況になっていた。人は精神的に転落したら、どこまでも転落してしまう。
でも負けん気だけは捨てなかったと思う。苦しくて苦しくてたまらないけれど、どこかで挽歌視しようという気持は持ち続けていた。自殺を考えながらも。

やっと卒業できた。卒業式は仮病を使いさぼった。中学も高校も大嫌いだった。憎しみすら持っている。いまはどうでもよくなったが、一生こんなとこにはこないと思った。
早く社会に出なきゃいけなくなるときまでに対人恐怖やそれに付随する神経症の悩みを克服しなきゃと思っていた。でもいい方法なんかまったく見つからなかった。本物に出会えなかった。
一縷の望みに期待をかけて、苦しみの中で生きていた。

あまり期待をかけていなかったが、少しでも対人恐怖による神経の暴走を沈めようと、自律訓練法のテープ(CD)を購入した。でも何にもならなかった。交感神経の高ぶりは、自律訓練法ごときで抑えられるわけがない。表面上をただなぞるだけのものだ。
もっと私の悩みの深さはとんでもないものだし、自律訓練法で時間を潰すのはもったいないなと思うようになった。最初から気休めでやっていただけだったが、何の役にも立たないことがはっきりした。長続きせず捨てた。

(ネクスト)

 


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