岩波英知自己正常化プログラム口コミブログ Dr.Strangelive または私は如何にして対人緊張で苦しむのを止めて自分を愛するようになったか

☆人生を地獄に突き落とした対人緊張、社会不安障害、対人恐怖、視線恐怖症、赤面症、そしてうつ病 その私がいかにして劇的に神経症を克服できたか。 岩波英知先生の自己正常化プログラムを受講したブログ主の口コミ体験談 その効果やすごさについて ☆私に奇跡を起こしてくれた岩波英知先生の神経症克服プログラム(自己正常化プログラム)の体験記や感想、ガイド 社会不安障害(対人緊張や視線恐怖症)・うつ病で苦しんだ修羅場の体験記 このブログを同じ対人緊張で人生を苦労の連続にしてしまった人へ捧げます

カテゴリ: 対人緊張の体験談ブログ

高校生で神経症になるまで

私立中学に入学した。小学校時代の窮屈さやしがらみから解放されるとおもって、少しは希望をもった。電車で遠いところにある中学に行ったので、すべてが変わると思った。でも何も変わらなかった。よけいひどくなった。
中学校自体の雰囲気がなにかどんよりも曇ったイメージだった。年齢の成長もあるかもしれないが、みな疎外感を全面に漂わせていた。心に壁を作り始める年代だ。重苦しかった。何より自意識が芽生える年頃だ。
私に自意識が芽生えたら、自滅するのは今ならよくわかる。

それでも最初は環境が変わり、心機一転の心境だった。でも、クラスの中で派閥を皆作り始めた。そしてその派閥以外のグループとは疎遠の状態だった。だから、孤独感は余計強まった。
私は、あるグループで行動を共にした。そのグループの中では居場所があり安心だった。でも、嫌われたくない、良く思われたいという気持ちは、いっそう強まった。疎遠なグループのメンバーから自分のことが嫌われているんじゃないか、という思考が小学生時代のようにおそってきた。ほんとうに冷たい雰囲気のクラスだった。担任も窮屈な奴だった。
だから、その素っ気ない態度で、余計やばい嫌われている、といつも周りをチェックし、人の顔色を見た。嫌われないようにどうしたらいいのか、どうしたら好かれたり、みんなに受け入れられるんだろう。全神経をつかって、この自意識が芽生える時期に全力でやっていた。小学生の何倍も窮屈になった。
いつも怯えていた。悪口が怖かった。疎外されたり、無視されるのが怖かった。

あることでクラスの奴とけんかした。冷戦状態のけんかだ。理由は忘れたが、お互いに譲れないものがあったんだろう。私もかなり頑固な性格だったし、ここで負けたらアイデンティティがやばい、と思ったのかもしれない。
ともかく、なにか強く思ったら強化してしまうことがあった。それが神経症に結びついているのだが、そのとき、けんか相手に別のグループの奴まで応援した。ショックだった。中立なのに、なぜか相手を応援している。急に弱気になった。惨めになった。
余計クラス中の眼や顔色を伺うようになったし、いけないことをしてしまったという後悔ばっかりしていた。けんか相手の奴がにやついているのをみると、無性に腹が立った。やっぱり私の存在が、そういうふうな存在なのかな、と腐った。
ここであくまでも私の筋を通しきれば、違った結果になっていたことは間違いない。勝手に萎縮してしまって、殻に閉じこもった私の自滅ですね。

高校に入った。がちがちに人前で緊張していた。国語や英語で発表があったり、当てられたりすることがある。中学までは、いやだったけれど、それなりに読めていた。
でも急に声に(のどに)意識が向いた。恥をかいたらどうしよう、という思考がよぎったのかもしれない。急に声がつっかえた。どもるようになった。クラス中の奴が笑った。自分自身、声の震えも気になる。それ以来、教師に当てられることも凄く辛くなった。クラス中のやつらが、当てられるのを期待しているようだった。
実際、クラス討論会があり、しょっちゅう自分に当てられた。惨めだった。奴らの期待は、自分がつっかえたり、声が出なくなって突っ立っていることだけだった。でも、道化のように私は笑っていた。心の中では泣いていた。同情してくれる人もいたが、辛いだけだった。

目立たないようにしようと思っていたことが、自分の症状のせいで目立ってしまうし、嫌われないようにしようと必死で心に誓ったのに、嫌っている奴も(最低限気に入らないぐらいでもいやだった)いたし、みんなから好かれたいのにそれもかなわなかった。
自分を完璧にして、良く思われようと常に考えていたが、行動もせずに頭の中で良く思われようと思っていただけで、ついには自滅してしまった。

細かいことはいくらでもあるけれど、それ以後の自分に比べれば、まだまだ序の口だ。まだまだこのころまでは生きられたし、ハンデはあったけれど、死を予感したことはなかった。
でもこのあとに、とんでもない負担が私の心をおそった。完全に神経症になってしまった。生きられないと思ったし、治る見込みがないと思った。それまでのきつかったが、度合いが今度はもっと違う。

 

(ネクスト)


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学生時代の思い出-小学生まで

幼児期の頃から、ああしろ、こうしろ、恥をかくな、良く思われろ、という教育を受けてきた。人目を気にしやすい母親・厳格で融通がきかない感情を表に表さない父親のもとで育った。
当然、誰よりも人目に敏感になり、自己主張もできません。感情の発散自体が恥ずかしいことと思って生きてきた。兄弟もみんな似たような性格を持っている。
でも、ここまではまってしまったのは私だけ…。何が差を分けてしまったのでしょうか。でも今は兄弟も少なからず悩みを抱えているようです。神経症とまでは至っていませんが。

いつもどこかに窮屈な感じをして生きてきた。クラスメートとも、話がしっくりいかない子供とは、絶対その後しっくりいかなかった。
自分を受け入れてくれる子供だけ友達になったが、自分が苦手だな、と思った同級生とは絶対、うまく喋られなかった。気持ちがどうしてもついていけなかった。年上の人や先生ともうまく喋られなかった。
なにか喋らなきゃ、暗いと思われる、変に思われる、という気持ちが子供の時から強かった。だから喋ろうと話しかけようとする。
だけれども、よけい何を言っていいかわからなかった。でも話したい。余計窮屈感を覚えた。
子供らしいところもあったけれども、幼くして、はまるベースを着々とはぐくんでいた。なんか生きづらいなと感じていたことは確か。
でも子供心に楽しいこともたくさんあったけれど。

友達やクラスメートにちょっかいを出されるようになった。一応友達だったやつだが、いつも私のことを無口だの、もっとしゃべれ、だの言う。また目が潤んでいるので、なんで泣いているの? なんてよくいわれた。
そこが視線を意識、眼を意識する原因となったのかもしれない。その悪友だけではなく、別の奴にも言われたから、そうなのかな、とよけい自分の目を意識した。
ともかく、そいつの言うことがすべてが、私に対する当てつけに思われた。だからいつもそいつがいると身構えた。人のいうことの裏を考えるようになった。人の投げかける言葉をすべてマイナスにとってしまうように。

どうしたら言われないようになるか、いつも心を砕いていた。余計居場所がなくなるというか窮屈感が増した。
でもそいつとはつきあわなきゃいけない。そのちょっかいや当てつけに対して、がつんと言ってやりたい。でもできなかった。
よけい不満がたまったし、それが言えない自分が情けない。さらに、そいつの友達までが(私とは親しくない)私にちょっかいを出し始めた。
なんでこいつにまで言われなきゃならないんだと思った。プライドが傷つけられた。爆発しそうだった。でも我慢した。そんな自分に嫌悪感を持った。抑圧をため続けていた。
家でも同じ感情を抑圧されることを親からかけられていた。でも発散できるほど、人慣れしていないし、感情を出せないから、よけい内面に不満をため続けた。
岩波英知先生に出会うまでずっと抑圧のはけ口がなかった。だから神経症になるしかなかった。今から考えても恐ろしいことです。

一人で遊ぶことが好きだった。ホッとした。空想ごっこをして遊んでいた。両親もそんな自分に不安を持っていたらしい。
強い子にしようと、習い事を無理矢理させられた。見知らぬ環境が本当に本当に嫌でたまらなかった。通うのが嫌で良く泣いた。通うまでの車の中はとても暗鬱だった。
みな自分を嫌っているように思えた。他の人が楽しくやっているのを見ると、そうなりたい気持ちがあったけれども、できない自分が惨めに感じた。どうしたらあんな楽しくできるんだろう、と思った。母親はそんな私を不満に思っていたと思う。いろんなところに通わせられた。たぶん、そんな息子を持っていることが、人目に悪く映ってしまうからだろう。年を重ねるにつれて、人の評価を必要以上に気にするようになっていった。
親は親でこんな性質の子供に仕立てておいて、自己主張できないことをなじったりした。言われるがままだった。

学校は楽しくなかった。楽しいときもまあまああったが、トータルでみれば、やっぱり高校生に神経症という悪魔におそわれるだけの材料はたくさん収集していた。だからきつかったと言えると思う。いつも自分を守り続けていた。

異様に人からの評価が怖かった。通知票が怖かった。保護者面談が怖かった。
●●くんってさ、という会話が聞こえてくると、自分の評価を下されるんじゃないか、と怯えた。クラスのどこからか、自分の名前に似た言葉、発音が聞こえると、私の噂をしているんじゃないか、と不安になった。実際悪口も聞こえてきた。だから余計気になった。
人の顔色をいっそう伺うようになった。そんな自分がやっぱり窮屈で、年を重ねるごとにどんどん居場所が無くなっていった。ますます気持ちが萎縮していく。この頃から自意識がもっと芽生えたら確実に対人恐怖になってしまうルーツは出来上がっていました。

中学受験をすることになった。自分だけ違う進路に行くと、クラス中の生徒になにか噂されたり、疎外されるんじゃないかと怯えた。こんなくだらないことまで気を病んでいた。人と違ったことをしたくなかった。
当時は私立中に行く比率がすくなかったため、そんなことをしたくないと思った。でも、中学で、違う環境にいける喜びがあった。窮屈なこの状態から抜け出したい気持があったから。

近くの進学塾に通った。5年生からだ。でも一年ちかく、ほとんど友達ができなかった。話しかけるきっかけがなかった。みんな自分より前から入っている人ばかりだったから、私が話しかけると変に思われはしないか、と気にしていた。
その後、あとからはいってきた人と仲良くなり、それがきっかけで、他の人とのなじめるようになってきた。それに受験勉強という目的があったから、少しは楽だった。私の生活態度や内面をみられなくてすむから。
とはいっても、やっぱり対人恐怖的な症状は、すでにあったし、小学校ほどではないにしろ、人目を気にしたり、自分の名前に似た発音があると、やっぱりここでも言われちゃうのかな、とおもって、暗くなったときが何度もあった。
受験勉強はけっこう頑張った。だから学校では成績も良かった。

うんこをクラスで漏らしてしまったことがあった。トイレに行きたい、と言えなかったのだ。だからついに我慢できなくなって、出てしまった。
終わりのホームルームの時で、みんなくさい、くさい、といった。もう死にたかった。消えたかった。ただ嵐が過ぎるのをまっていた。結局、犯人がわかることなくおわった。(周りの奴は知っていたかもしれない)。
私はすぐ泣いて帰った。恥ずかしいことを我慢したら、余計恥ずかしい目に遭ってしまう。このルーツ分析をしていて、一時の恥を堂々とかけるきっかけになった過去の出来事でもある。これを反面教師にした。

話を戻すと、その後、犯人がわかってしまった。椅子にある防災用の頭巾クッションの臭いでわかったらしい。翌日ばれるのが凄く怖かった。ばれているんじゃないか、と怯えていた。
もう一生学校に通いたくなかった。当然、朝の登校時から、私を見る目がみんな違う。いかにもさげずんだ、馬鹿にした、にやついた顔ばっかりだった。クラス中噂になっていた。いたたまれない気持ちで席に座った。
あれだけ、みんなに変に思われることをしないように決めていたのに。防災頭巾は無くなっていた。担任の先生が捨てていた。誰も話しかけてくれる奴はいなかった。その後、あからさまに無視する奴が出た。
すべて自分が悪いんだと思って、耐えていた。よけいクラス中の話し声が、自分を責めたり笑ったり、悪口を言っているようにそのとき以来、いっそう聞こえた。悪友の一人が別のクラスにも教えまくった。惨めだった。
当時不登校は一般化していなかったため、必死で耐え続けた。

トレイに行きたいのをを我慢して漏らしてしまったことがそれ以前にもあった。何か発言するとまずいんじゃないか、恥ずかしい、と思って我慢に我慢を重ねた。つまり、自己主張が全くできない子だった。小便をもらして、水だ、と嘘をついたこともあった。
なにか違う出来事で自分が浮いてしまうことをおそれて、目立たないようにしようといつも思っていた。目立ったことをしちゃいけないと思った。だから、うんこを漏らした事件は、取り返しようもつかない傷を作ってしまったと、ずっと思っていた。

みんなからシカトごっこの標的にされたこともある。何をやっても話してくれないし、話しても反応しない。こんなことをされるのは自分が悪いんだと思った。他の奴はされていないのに私だけされるには、絶対理由があるに違いないと思った。
どうしたらされないですむんだろうと思った。自分の存在自体が、そうされる要素を持っているんだとしたら、そう考えただけでも恐怖だった。それは、もう対策がとれないからだ。そいつらに、立ち向かったり、怒ったりすることもできなかったし、泣きたかった。
それはすぐ終わったが、いつそれがまたされるんだろうと思うと、余計嫌われないように行動しなきゃと思った。目立つことはしないでいれば、すべて何事もなく時間が過ぎていくだろうと感じた。それを実践しようと強く決めた。
この逃げの姿勢が対人恐怖を強化してしまうことに。

それまで目立ったことをすると(当然子供の無邪気さで)、それを押さえつけたり、悪口を言う奴が近くに必ずいた。どんどんそんなわけで萎縮していった。
もうこのころから、対人緊張や社会不安障害の原因は完全にできあがっていたし、いまなら当然だと思っている。それぐらい抑圧と萎縮と人の顔色を読む反射神経は並はずれていた。

そのときは夢も目標もあった。勉強もスポーツも頑張っていた。
私の父親と母親に育てられれば、症状の度合いは違うけれど、はまってしまう子供になるのは、今はわかる。でも、親は変えられない。いつまでそんなことにくよくよ考えてもしょうがないと思う。
でも、子供の時はそれがすべての世界だったから逃れようがなかったのです。

 

(ネクスト)



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第一部 神経症による緊張・不安・心配・恐怖・暗鬱・無惨・絶望・劣等感・焦燥感の日々(暗黒期)

 

すべてを書いてあるわけではありません。抜粋して書いていますが、それが起きている間はずっと、それと似た思いをいつもしていたわけです。よく似ている方は、辛いと思うかもしれません。
でも、そんな私でも良くなった事実があるので、希望を持って下さい。
元ネタは私が受けた心理プログラムでやったルーツ分析メモからです。

私の社会不安障害・対人緊張などの症状 

社会不安障害(対人緊張・あがり症・手の震え・視線恐怖症・表情恐怖症・赤面症・自律神経失調症・不眠症)・うつ病

たくさんありますが、対人恐怖がすべての元でした。人に対して意識とは正反対に異常に緊張してしまいます。それを強化してしまってきたのが私の前半生です。
 
発症時期
高校一年生(16歳)から。小学生の時から対人緊張の要素はあった。生きていくこと自体がきつくなったのが高校一年生でした。
まさに自意識の芽生える思春期の罠ですね。最初はわけもわからないで、神経症にひたすら堪える日々でした。原因がわからなかったのがつらかったですね
 
通った心理療法
精神科・心療内科・カウンセリング施設・ヒプノセラピー・森田療法など。それに費やしたお金と時間は、すべて無駄でした。
得るものを見いだせなかった私にも原因があります。ただどの方法も対人恐怖や社会不安障害の悩みを解消させる威力がなかったです。本物はどこにもいませんでした。いないから本物といえるかもしれないですが……後に克服した方法と比較したらアマチュアレベルばかりです。プロを装っていますがそんなレベルばかりです。
いかに神経症の克服が難しいかを表してもいます
 
私の各神経症を克服できた理由
岩波英知先生の心理プログラムの神経症克服プログラムを教えてもらい、通いと合宿に参加したため。効果や威力、アビリティ、密度、切れ味、驚き度といったものが全然違います。本物と会えたことが何よりうれしかった。
これぐらいの威力をぶつけなければ神経症は好転しないと断言します。絶対にそうです。潜在意識からの解決、そして私自身の認識の改革と人生を対人恐怖、社会不安障害でムダにしたくないという強い思いが結果に導きました。


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相互リンク集 どれも役立つブログばかりです

神経症の克服プログラム関連リンク
 

各神経症を治された人たちが集まって作っています。イワさんやダーマツさんらのサイト。対人恐怖の項目は必読です。いろいろな情報や岩波英知先生のプログラム体験記が書かれてあります。神経症克服者の集まるページ様
私と同じ対人緊張、視線恐怖症、社会不安障害を克服された人が作っています神経症克服征服きょーかい様
これも岩波英知先生のプログラムで神経症がよくなった人たちが集まって管理しています。関西の人たちです。MINDART FRIENDS 関西様
女性で神経症克服のナナさんのページ。視線恐怖症と対人緊張、おなら恐怖症、会食恐怖症などだったようですナナの対人恐怖と鬱の部屋
SUGAR BφYさんのブログ。大うつ病になる生い立ちと仕事、復活の日まで。抗うつ剤の恐怖についても書いています大うつ病と僕の生い立ち うつ病・神経症の因果関係考察様
カンダタさんの極度のあがり症、話し方トラブル、対人恐怖の克服体験蜘蛛の糸をのぼれば様
ブログ。社会不安障害のeverymanさんの出会いと体験記。みずみずしく書かれてあります。対人恐怖、社会不安障害で私と全く同じ症状。いろいろな情報が積み込まれています神経症克服プログラムとの出会い様
キラさんの海外うつ病体験記。生い立ちやルーツ分析、治療方法、抗うつ剤のこと、オススメの鬱病克服方法のことなど。アメリカから岩波英知先生のプログラムを受けに飛行機で通っていました。海外うつ病からの治療・回復様
赤面症やあがり症の克服部屋です。トマトマトさんの赤面症克服方法がためになりますあがり症赤面症トマトマト様
神経症克服=「あしたのために」すべきこと。克服した与一さんの体験に裏打ちされた方法は必ず覚えておくといいと思います。毎日実行していきましょう。歩みを止めると神経症がぶり返してきますから。神経症克服のための箇条書き様
私も書き込んでいます。過去ログサイトですが、神経症克服のための考え方が書き込まれていて、是非参考にするといいと思います。五円玉さんの信念も見事です五円玉の岩波先生心理療法掲示板様
通っている人や神経症を改善された方の書き込みが多いです。一番の話題は呼吸法についてですかね。刺激を受けるには一番の掲示板かもしれません岩波先生神経症克服プログラムの感想・口コミ掲示板様
社会不安障害、あがり症で苦しみ抜いた頃の内面記録を書き起こしています。プライド、緊張、あがり症、ばれない努力、バレた時の不安、緊張する場面への予期不安など、切実な思いが満載です過去のあがり症を振り返ってみて 社会不安障害ビジネスマンSADの内面記録様
ガッツさんの社会不安障害・対人緊張・視線恐怖症の苦しみのブログ。私や同じ症状の人が読んだら、自分のことのような体験ばかりですね。現在は岩波先生のプログラムに通っています。現在進行中ですので、励みにして下さい←無事岩波先生の神経症克服プログラムで解決に至ったようです、よかったです!社会不安障害克服! 克服ブログ様
自臭症を神経症克服プログラムで解決できたひよ子さんのブログです。自臭症は対人緊張の一種で、人によってどこに執着するかで、症状が変わってくるようですひよ子の自臭症を短い期間で克服した秘話様
ママ友との付き合いでのトラブルから対人緊張、社会不安障害が発症。視線恐怖症やメニエル病などに悪化していったようです。そして対人緊張が子供への発育にも悪影響を与えていってしまったブログ対人恐怖ママのママ友トラブル 子供への悪影響と社会不安障害克服のお話様
  

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対人恐怖と自殺

私は高校時代と大学時代に常に自殺の方法を考えて、死ぬ場所まで考えたことがあるくらい追いつめられていました。
自殺のシミュレーションを何度も行っていました。
とんでもないくらいに神経症によってぼろぼろになっていました。
未来なんか無く、暗闇の中をうごめく生きる屍となって生きていました(希望なんて持ったら、余計自分が惨めになるだけでした)。
そして対人緊張が治る唯一の方法は自殺だけしかない人間に希望なんかもてるわけがありません。

奇跡な結果ってあるんですね

でも、奇跡を起こせました。
最初は徐々に、そしてみるみる対人緊張、視線恐怖、うつ状態、赤面、顔のこわばり、話し方、手の震え、声の震え、すべてが良くなっていきました。
私を悪化させ続けたマイナス思考が外れ、プラス思考が芽生え、人からどう思われても関係なくなりました。

私は笑われてもいい。
私がすることをするだけだ。そんな人ほど笑われないものです。
落ち込んでいるどうしようもない状態もなくなり、パワーと元気がどんどん湧いてきました。
プラス思考で物事をとらえられるようになりました。

何とかなる、私はあの神経症をのりこえたんだから。苦しみに耐え抜いてきたんだから。
私にはもうあの時の状況を考えれば怖いものなどないと思えます。

本当に本質的なところから悩みを変えていけば、どんなきつい神経症の人でも克服は可能です。
私がそれを経験して克服してきました。

その体験談や、悩みで苦しんできた経緯、良くなることが出来た岩波英知心理脳内プログラムについてWEBページに書いています。ぜひごらんください。

実際によくなっている人がたくさんいます。今は出口が見えなくても、これからはトンネルの向こうにかすかな光がある、そんな状態にこのページを通して実感されれば、うれしいです

あなたは満足に生きられるし、生きてもいい人です!
過去の出来事やトラウマに足を引っ張られる必要はいつまでもありません。
もう苦しむのは終わりにしましょう!

ノブ

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完全な神経症に悪化した時期、治りたくても治らない苦しみ

そもそも神経症といわれるレベルになったのは、高校時代でした(小学生からもちろん兆候はありました)。
以来十五年精神科・心療内科・カウンセリング・ヒプノセラピー・森田療法と渡り歩いてきました。
いくらお金を費やしたでしょうか。
失ってきたお金や時間、本当にもったいないことをしてきた人生でした。

贅沢も当然許されず、いかにお金を使わないで貯めていくかだけ考えていました。
お金を派手に使うこともできず、神経症の苦しさと一緒に、生活も制限される悔しさに涙しました。

私は何でくだらないことにお金をつかわないといけないのだろう。
みんなそれぞれ趣味にお金を費やせるのに。悔しさいっぱいでした。

一生死ぬまでこの苦しむ状態が続くのか・・・・といつも暗鬱な気持ちでした。
もがき苦しむ人生をなんで自分は送らなきゃいけないんだろう、いつも自問自答していました。
答えはまったく出なかったです。

行き場のない怒り、鬱憤、絶望、ストレス、哀しみ

なんで私だけがこんなくだらない!症状で苦しまなければならないんだろう。
苦しみの生け贄に選ばれるタイプの人間なんだろうか? 
毎日をびくびくしながら、挙動不審に思われながら、馬鹿にされながら、生きなければならないんだろう、とくさくさしたり嘆いたり、鬱積した感情でいました。

考えれば考えるほど、対人緊張や社会不安障害の悩みは私を容赦なく襲いました。
考えたら負けだとはこの時は気づいていませんでしたから、やることは考えることと余計悩むことでした。
どれだけ部屋で一人で悔し涙にくれたことでしょうか。
大の大人がクタクタになって、身も心もズタズタになっていました。

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